キャサディ・キャサディ

消費するだけの毎日にようやく辟易してきた。

今まで自分にカチッとハマる「創造」的な活動を見つけられていない感覚があった。ぼんやりと触り続けているベースも、止まったままのバンド活動も、作りかけのあれやこれも。

 

 

最近思うのは、何にしても「ある程度の」ところまでやってみるべき、ということ。もちろん嫌々やるという事ではない。つまらないと思うならすぐやめてしまえばいい。

 

ただ自分の場合、前段にあげたいくつかの事柄を、面白いと感じているのに見事な中途半端具合で放り出してしまっている。完全に辞めることはない、しかしだらだら、だらだらと。どれに関しても情熱のピークはとうに過ぎて、くすぶっているだけの状態。だからハマる感覚などあるわけがなかったのだ。しっかりと向き合わなければ、求めているような物は返ってくるはずもない。

 

時たま少しだけ燃え上がるときはあった。でもそれも一過性のもので、すぐに元のくすぶった状態に戻ってしまう。これをやっても無駄なのではないかと考えたり、誰かと比べてしまったり。

その程度の情熱なら、目を瞑ってしまった方がいいと何度も考えた。半端にくすぶっていると、中々に辛いものがあるのだ。

でも何故かそうすることはできなかった。自分の琴線に触れてきたものが、そうはさせてくれない。ある種「呪縛」のようなものなのかもしれない。

 

 

そんな思いを抱えたまま、ここ何年かを過ごした。

ある日、消費する「だけ」という事が、今までにも増して酷くつまらなく感じるようになった。この感覚は前から持ち合わせていたが、それが急に増幅した感じ。

 

生活が安定してきた事が大きい気がする。日々の生活が確立されてきて、余裕ができてきた。その余裕を、ただなにかを消費する「だけ」に使っていると、なんだかとても「退屈」に思えてきた。

 

今まで何度もあった小さな燃え上がりは、様々な要因からもたらされたものだが、どれも少なからず「焦り」を含んでいたように思う。「なにかやらなきゃ」という観念に囚われて、結果や見返りを求めてしまう。そしてその動きは鈍い。「焦り」という、一見内面的なようにみえるがその実外面的な要因では、情熱の純度が低いからだ。過去にも「退屈」だからという理由で動き始めた事もあったが、そこに焦りが混ざっていなかった事はなかった。

 

だが今回の「退屈」はまぎれもなく内面的なものだ。自らの奥底から探し当てたものだ。誰かに気づかされたとか、影響を受けたとか、そういった類のものではなく。「焦り」は全くない。

今まで持て余していた「呪縛」としていたものに感謝した。それがあるから「退屈」に気がつくことができた。

 

改めて、これから「創造」的な活動をしていこうと思う。そしてそれが面白いと思ったなら、今までのように中途半端ではなく、可能な限りは腰を据えてやってみよう。今書いているこの一文も、その小さな一歩だ。

 

もしかしたら、これはただの勘違いで、繰り返してきた一過性の燃え上がりなのかもしれない。また元のような生活に戻るかもしれない。

ただ、「焦り」はない。元の生活に戻ったとしても、「退屈」ではない日々を求めて足掻くことを辞めなければ、いずれそれが「退屈」と感じない日々になっていくと感じているからだ。